切ない回転寿司

家の近くに、回転寿しが沢山ある。なので度々そこで食事をする。安いし、子供も連れて行きやすいし、少しだけ食べてもOKだし、カジュアルに生のお魚が食べられて、とてもありがたい存在である。

特に良く行くのは、一皿100円(税抜)のチェーンの中で、想像上の生き物の名前を冠してもなく、注文にiPadを採用もしていない方のお店だ。家に一番近いし、わさびもデフォルトでついている。

席に案内される際に心底願うのは、どうか少しでも川上に近い席であってくれという事だ。回転寿司の上流と下流では、特に混んでいるお店では雲泥の差がある。ご存知のように回転するカウンターは長いU字型をしているので、最上流と最下流はカウンターを挟んで向かい同士になるわけだけど、これはもう、なんとも残酷な席の割り振りとしか言いようがない。最下流に座り「お! 川上からよさそうなサーモンが流れて来たぞ!」と心躍っても、最上流席の輩はろくに見もせずにそのサーモンをかっさらってしまう。
大抵は3皿ずつ流れてくるので、いやいやあと2皿残っているぞってなもんだけど、悲しいかなそのサーモンが私の席に辿り着くまでには幾千もの(に、その時は見えるのだ)家族連れや友達連れ等の毒牙をくぐり抜けなければならない。当然ながら最下流まで無傷である事は稀である。びっくらポン(店が違うね)が当たる確率よりもずっとずーっと低くて、大抵は「サーモン」と書かれた札だけを虚しく見送る事になる。切ない。

「じゃあ自分の食べたいものを注文すればいいじゃないか」と思った人がいたとしたら、それは素人の考えだ。いや、ど素人と言わせてもらってもいい。何度か行くとわかるが、回転寿し程ネタの質に個体差があるお寿司やさんもないのだ。それはもちろん日によっても違うし(お、今日のハマチは全体的にいいね、とか思う)、個体差もかなりある(なんだこの中トロ、切れ端じゃん、とか)。注文してしまえば、いかにフニャフニャなやつが来たとしても、甘んじて取る以外に術はない。似てるようで、どこか違う寿司ネタ達の、鮮度、大きさ、シャリとのバランス。そこをも見極めての回転寿司道なのだ。また運良く川上に座れて、寿司ネタのジェットストリームアタックを満身に受けられたとしても、その中で真に輝いている一皿を瞬時に見極め、隣の席との曖昧なボーダー領域に入る直前にその皿を奪取せねばならない。そうしてその狙い通りの獲物を手に入れた時の達成感たるや、何にも代え難いのだ。にんまりである。ほとほと小さい男だとは、自分でも思う。

しかし川上に座ったら座ったで、別の悲哀もある。それはそのカウンターの全ての可能性が自分に向けて開かれているという事だ。最下流はおいておいたとしても、中流くらいの席だとある程度選別され、ふるい落とされた選択肢がやってくるわけだけど、最上流ではその選択肢達がまんま、RAWな状態(生魚だけに、なんてね)で眼前に晒されるのである。これも疲れる。カラフルな寿司ネタが次々に「ヘイ! 俺の脂のノリはどうだい!」「見てくれよこの海苔の巻っぷり!」「いや、俺の身の照り、これを見てくれなくちゃ!」と迫ってくるのである。こっちはもうプレイボーイ気分になる訳だけど、ウハウハはウハウハなんだけど、いやはや疲れる。そして僕より下流に流れるお寿司は全て「僕が選ばなかった未来」なのだ。それらが無機質なトレイに乗せられ、どんどん遠ざかって行く。切ない。

首尾良く中流の人達に取ってもらえたネタ達はいい。そこも見過ごされた寿司ネタは今度はこちらに戻ってくるのである。最下流の席にも取ってもらえなかったお寿司達とは、目も合わせられない。「あと三周もすれば最新の鮮度保持システムの働きによって、俺たちは廃棄されてしまうんだ。あんたが最初に俺たちを取らなかったばっかりに、な!!」とでも思っているだろう。自分の選択を恨まれるのには慣れている。しかし寿司ネタまでに恨まれたくはない。あまりに切ない。

この文章を良い具合にまとめるとすれば、「どんな境遇やポジションにあっても、そこ由来の独特な喜びがあり、悲哀があるのだ」みたいな事になるだろう。それは口当たりが良い結論だ。だけど僕がこの文章でもっとも伝えたかった事は「100円寿司のネタの中でもっとも日によっての差が少ない、安定しているネタはびんちょうマグロのトロ、すなわちビントロである」という事だ。それだけ書ければ文句はない。人は時に本当に伝えたい事を言う前に、ずいぶん遠回りをするものなのだ。